思い出のスナップや絵、随筆などありましたらメールフォームからご連絡ください。昔のものも大歓迎です。

第29回会議(アンドリッチグラード)


第28回(ザグレブ)が終わりほっとしている皆さん

第27回会議(バラトンサールソー)


第26回会議(チャナッカレ)の初日が終わった皆さん


第25回会議(エアフルト)の打ち上げ前でくつろぐ皆さん


第24回会議(ソフィア)が終わりほっとしている皆さん

(第22回会議(ブルノー) 撮影:富谷たつき君)

こちらこちらよりその他の写真を見る・ダウンロードすることもできます。
(カレル大学の三上先生。ありがとうございます)


第22回会議(ウィーン)が終わりほっとしている皆さん


第21回会議(セルビア)が終わりほっとしている皆さん


マナシア修道院(国立教育政策研究所 小松幸廣先生作)

ベオグラード印象記   砂川裕一(群馬大学教員)

 8月にセルビアのベオグラードを訪れた。国際政治の舞台に何度も登場してきた街であり、テニスやサッカーなどのスポーツに関わって耳目を引く国でもある。縁があって同じ旧ユーゴのスロベニアにはよく足を運ぶ。しかし、セルビアは今回が初めてで、訪問の目的は第21回日本語教育連絡会議に出席するためであった。

 ここでは、一週間足らずの研究会出席の際の個人的な印象を点描するというかたちで、いくつかのことを記しておきたいと思う。その途次で、「日本語教育連絡会議」が何であるのか、それがセルビアやベオグラードとどのようにつながるのか、あるいはまた、ヨーロッパと呼ばれる(あるいは自らそう規定しようとしている)地域の変化や、旧ユーゴの解体とその後のバルカンの今、遡っては近現代史の一コマにもほんのわずかではあるが触れることができるかと思う。

 2008年8月20日の昼過ぎ、ウィーンからベオグラードに入った。マジャール平原を越える飛行時間、わずか90分の距離である。こぢんまりした空港にはベオグラード大学文学部の日本学科の学生達が待っていてくれた。次々に到着する日本語教育連絡会議の参加者をアシストするために、ほとんど一日到着ロビーに張り付いてくれているとのことだった。

 緊張しているのかまだどことなくたどたどしさの残る日本語で我々を迎え、タクシーに乗せて予定されていたホテルへ向かうように運転手に指示を与えてくれた。現地語にも交通事情にも疎い旅行者にとっては、雲助運転手がいるかもしれないタクシーに乗るのはちょっとした不安を強いられる。その不安を知っている現地スタッフとボランティア学生達の配慮ある対応だった。この学生達の表情と物腰を見ればベオグラード大学の日本学科の教員スタッフと学生達との日常的な関係の良好さが伺える。

 街の中心部から2キロほど北に上ったところにあるホテルに到着し再び学生ボランティアの出迎えとアシストを受けた後、近くのレストランで昼食をとった。店の前の広い並木道の歩道にテーブルを並べたなかなかしゃれた場所であった。英語のメニューが出てきたので、観光客も訪れるような店だったのだろう。ウェイターの態度も表情も穏やかで気持ちの良いものであった。そういう店であったためか、はじめて現地で味わうセルビアの味も中央ヨーロッパにしては比較的さっぱりした感があり、予期に反して“西ヨーロッパ風”を感じた。  タクシーから見えた街の様子も、ホテルの周辺の建物も、旧ユーゴからの独立前後当時のスロベニアと同様に多少煤けた感じで、痛んだ壁などの修復もまだ進んでいない様子が窺えた。この印象は中心部のショッピング街を散策して少なくとも一部については改められはしたが、同時に、NATOの空爆によって破壊されたビル群が街の中心部にそのまま生々しく残されたままになっており、それが“空爆通り”とも呼ばれていると聞くと、この国が抱える現状に思いを巡らさざるを得なかった。

 夕刻から日本語教育連絡会議の参加者のうち約20人ほどが、プログラムの一環として予定されていたカレメグダン公園の散策に出かけた。スロベニアを源流としてクロアチアから流れ込むサヴァ川とウィーンやブタペストを貫流して流れ込むドナウ川が合流する地点を見下ろす丘の上にある大きな公園で、紀元前4世紀にはすでにケルト人の要塞が築かれていたとのこと。今は老若男女の市民の憩いの場所となっている。

 案内役を務めて下さったのは、山崎洋さん。あのゾルゲ事件に連座して収監された旧ユーゴスラビア人ジャーナリスト、故ブランコ・ヴケリッチ氏のご子息である。チトー率いる旧ユーゴ時代のベオグラード大学に留学して社会主義経済学を学び、そのままこの地に留まり、旧ユーゴの崩壊やNATOの空爆を体験し、国際社会の厳しい視線に晒されるセルビアで生きてきた方である。公園内そして公園の周辺をそぞろ歩きながら、また時には立ち止まって、ベオグラードやセルビアやバルカンの歴史に触れながら、穏やかに語りかけるように史跡や風景や人びとの暮らしについて説明して下さった。旧ユーゴの各地で繰り広げられた戦争やその中でのセルビアに向けられた国際社会の視線や態度については何も語られることはなかったが、現代史の一コマも二コマも背負い込んで生きてこられた氏のお話をもう少し伺ってみたかったと思う。

 セルビア正教の大聖堂の見学の後、最後に氏が散策ツアーの終点として案内して下さったのは、セルビア正教大聖堂のすぐそばのベオグラードで一番古いといわれるセルビア料理のレストランであった。予想どおりで期待どおりの肉が中心の料理であった。もちろんビールとワインで研究会の成功を祈念したことは言うまでもない。

 翌日、ホテルから歩いて数分のベオグラード市立図書館の一室を会場にして、第21回日本語教育連絡会議が開催された。旧知の顔ぶれに新顔も交じり、駐セルビア大使などのあいさつもあって、例年のように高揚感にあふれる開会となった。この「日本語教育連絡会議」の歴史と詳細については、以下のサイトを参照されたい(http://renrakukaigi.kenkenpa.net)。このささやかな、しかしユニークで、日本語教育関係者の“元気のよさ”を体現するかのような研究会もまた、かつての東西冷戦時代のしっぽを引きずりながら、旧東欧地域を中心に毎年一回開催されすでに21年の活動歴をもつ。今年ベオグラードで開催できたのは、先の山崎洋氏の夫人であり、ベオグラード大学で学位を取り、現在文学部で日本語や日本文学などの教鞭をとる詩人の山崎佳代子氏の尽力によるものである。旧ユーゴ戦争の間、なかなか会う機会には恵まれなかったが、一昨年スロベニアで開催された連絡会議で久々の再会を果たし、今年の開催校を引き受けて下さり、“戦後のセルビア”を訪れる機会を与えて下さった。

 取り立てて組織らしい組織を持たない研究会の開催を海外で引き受けるということは、予想し得る以上に煩雑な手間がかかる。毎年、そのような手間を引き受けてくれる新旧の献身的なメンバーに支えられて21年も続いてきたのであるが、今年は自称“お祭り佳代子”と氏の同僚教員と熱心な学生達に支えられた。

 二日間で合計28の研究発表を終え、打ち上げパーティーを行った場所はベオグラード郊外の住宅街の中にあるレストランだった。日本人の胃腸の消化力の脆弱性を慮ってメンバーの一人が提案したとおり、ふんだんな野菜料理が準備されていた。脂っこさはあるにしても、それはそれでアルコールに合う。観光客というよりは地元の人たち相手の比較的素朴なレストランという感じであったが、土曜日の夜ということもあってか結構繁盛しており、ある程度の余裕のある層の存在を感じさせた。それは翌日のオプションとして予定されていた小旅行の際にも感じたことであった。

 翌日、バスを借り切って、ベオグラードから南に約150キロ、コソボとの州境(国境?)まで約100キロの地にある、鍾乳洞と古い教会を訪れた。教会は、厚さ数メートルの石の城壁に囲まれていた。あまり見たことのない様式であったが、古来、様々な民族の侵入がそのような城壁に囲まれた教会建築様式を生み出したとのことである。印象に残ったのはその点もさることながら、バスの窓から垣間見た沿道の農家の庭先に見られた数多くのベンツやワーゲンの乗用車であった。家や庭の作りもこの地域が比較的豊かであることを感じさせた。国際的な制裁に晒されながらも、徐々に国力が回復してきているのかもしれない。

 バルカンの情勢は今でも予断を許さないところがある。セルビアの南部の治安は必ずしもよいとは言えないとも聞く。そこここの戦争の傷跡も人びとの遺恨もまだ生々しいはずである。言うまでもなく、欧米主要メディアによって形成される“国際世論”とセルビア内部から見えている実情との間には径庭もあるはずである。そのような話題を持ち出す機会を持たなかった今回の訪問では、人びとの様子や表情や街のたたずまいなどから旅行者の目で感じ取る以外にはなかったが、研究会の時間以外はセルビアのビールとワインを傍らにおいていた筆者の目には、人びとはじっと耐えているようにも見えた。バルカン半島の南部に位置するとは言え、ラテン系民族のように陽気で時にはやかましいと俗に言われるようなこともなく、日本の演歌にも似たセルビア“演歌”のメロディーもどことなくしっとりしていたように思えた。ナショナリスティックな思いを押し殺しているのかもしれないし、限られた時間内でそのような落ち着いた地域や人びとだけを見てきたのかもしれない。が、やはり、街を行き交う人びとの多くは穏やかであったように思う。

 今年から来年にかけてベオグラード大学の学生達の何人かが日本に留学することになっているという。その学生達が筆者のいる群馬で集まるという話も、同行した群馬大学の学生から聞いた。メディアの発達など、どう理屈を唱えてみても克服できない“距離感”を超える力は、その地の空気や光や水に直に肌を晒し、一人一人の人との直接的な接触によって得られるものであると思う。隣人同士が殺し合うような体験を持つ人びとにとって、政治や民族意識や宗教的対立の軛は逃れがたいものではあるだろうが、詰まるところ、人と人との直接的なつながりとその個的な実感の共有が、一方では毒や殺戮の根拠ともなり、また同時に他方においては強いられた遺恨や執着や誤解を解きほぐしていってくれる糧にもなる・・・。ベオグラードでの数日間はそのようなことを改めて考えさせてくれたように思う。

(2008年9月7日脱稿/3960字)

追記:
この「印象記」は、『アソシエ21ニューズレター』(アソシエ21ニューズレター編集委員会編、アソシエ21発行)の2008年9月号に、編集者の依頼によって投稿したものの転載です。山崎さんご夫妻にも事実関係の確認をお願いしました。ベオグラード連絡会議の思い出の一コマとなればと思います。